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掲載紙 紹介~ミュージックリポートより

ひさしぶりに青空が広がりました.

 

「花街の母」発売にあたり、とてもお世話になった境ディレクターが

コロムビアを退社後に独立し、当時の様子を語った記事を発見。

以下、転載させていただきます。

「あの日あの頃」~昼行灯の恥っ書き~
(株)ミュージックグリッド代表取締役相談役  境 弘邦 著

 

文芸販売課長時代に金田たつえの「花街の母」と関わった。

私が大阪にいた頃、薄々知っていた程度の金田たつえ夫婦と

直接仕事することになった。

金田たつえの夫で事務所社長の梶原さんは

この『花街の母』に命を懸けていたが、当時のコロムビアでは

彼の情熱にキチッと向き合い、受け止める人は居なくて、

彼はいつもぼやいていた。私が販売課長になって係るように

なった時はすでに発売から5年が経過していた。

全国の販売店から注文が全く無い日もあり、

作品生命も風前の灯だった。

販売実績のほとんどが全国キャンペーンの手売りの数字だった。
地元・北海道から見知らぬ九州の果てまで

夫婦二人三脚のキャンペーン暮らしが 続いていた。
旅先からよく手紙を貰った。
まるで営業日報のように詳しくその日の様子が書かれていた。

【今、深夜の三時です。これから風呂に入り寝ます。

今日の夜キャンはあまり成果が上がらず、

二十枚程度でした。明日は五十枚売りたい。】

ドブ板キャンペーンと言われていた夜の酒場で

酔っ払い客相手の手売りは

特に辛い様子が言葉の節々に伺い知ることが出来た。

私の記憶では当時母親の手をやっと離れたばかりの

小さい子どもがいたようだったが、あの子はどうしていたのか…。

多分たつえさんのお母さん(名作『花街の母』のモデルに

間違いないと思われる人)に預けての行商の旅だったのだろう。

夫婦二人の絆の強さもさることながら、

この二人の志の強さには頭が下がった。

昭和五十三年七月三日消印の速達の一節を原文のまま紹介したい。

【日本人の歌、演歌、我がコロムビアの伝統ある演歌の灯を
微力ながら支えて来ていると笑われるかもしれませんが
自負して居ります。
どうかコロムビア、また日本の演歌の再興と
レコード会社としての本来の姿に

一日も早く立ち直ってくださる様お願い申し上げます】

金田たつえ夫婦はこの志があればこそ、幸いつらい夜キャンに

五年近くも耐え、乗り越えてこれたと私は確信した。

私はこの手紙を受け取った時から

私自身にできることは…レコード会社の本来の姿とは…

それは売ることだと結論づけた。

タレントだけが手売りで売るのではなく、

レコード会社の最大の収益である

レコードを売ることが今の我々に課せられた使命だと

自分に言い聞かせた。

良い作品、すなわち売れると思われる作品には

三年も五年も期限など無い。

 

今からでも充分間に合う。

私は早速行動を開始した。

売るために店頭の在庫をどう整備するか?

タレント自身が仕入れ、持ち歩き手売りする商品が

五年も経って全国のレコード店に在庫されているとは

とても思われず、ここから手をつけようと思った。
幸いにも以前私が川崎工場で働いていた頃の

仕事仲間が製造部門の要職にいた。

「オイ!頼みがある。金田たつえの『花街の母』を三万枚、

大至急プレスしてくれ!」

「それは無理です。いくら境さんの頼みでも

ここ暫くプレスの無い『花街の母』を、

しかもいきなり三万枚も作れないでしょ!」

 私は彼に金田たつえ夫婦のキャンペーン苦労話をした。

「それなら品切れさせないように暇なときに

少しずつ作り溜めておきます」

私は彼が言っていることは充分理解できた。

しかしそれでは駄目だ。

私はこれから実行しようとする戦略を説明した。

全くと言っていいほど売れていないものを
大量に出荷することで関心を持っていただく。

そのためバラ売りはせず、
二十枚入りの箱入り単位で委託出荷する。

もし返品になっても箱単位だと再利用できる。

そのうちに作品を聴き直す店員さんが出てきたら成功だ。

宣伝費のかけられない商品は出荷することが
最大のプロモーションになる。
大掛かりな店頭プロモーションを狙った。

「そんなにうまく行きますかね」

「私にも全く自信はないが先ず動かそうよ」

これ以上荒っぽい手法はない。

彼は渋々プレスを引き受けた。

各営業所にもそのことを伝え、地域の主力店に
貸し出しをお願いした。

但し箱単位での貸し出しを、念を押して頼んだ。

予想はしていたが、販売店から猛反発があり、
貸し出した商品のほとんどが返品されて来た。
やっぱり駄目か…。そんなに甘いものではないと思ったが

販売課長の私の立場で他に何が出来るか…何もない。

宣伝部とも掛け合ってみたが、発売から5年もたった

あまり実績の上がっていない作品にかける

予算は全くなかった。

よし!もう一回同じ事をやろう!
今度は多少枚数を減らし田舎の店を中心に
貸し出したがこれも見事に空振り…。

川崎工場の仲間に無理に頼んでプレスしてもらった
『花街の母』は営業所と販売店の間を2往復したが定着しなかった。

他に打つ手はないものか思案しても答えはなかった。
そんな手詰まり状態の私の前に救いの神が現れた。

当時、文化通信に味岡さんという年配の記者がいた。
髪をオールバックにしていて個性の強い人だと日頃から思っていた。

新聞記者が営業部に来ることは非常に珍しかったが、
彼は例外でよく販売課に顔を出していた。

特別に用事がある訳でもなく、いつも世間話を

して帰る人だった。その日も味岡さんは私のところにやってきた。

ちょうど私の元に金田たつえのキャンペーン先から
手紙が届いていた。

夫の梶原社長からで、中身はいつもの売り上げ報告と
その日に限り夫婦の悲壮感溢れる想いが綴られていた。
手紙の最後に夢を追い続ける我々夫婦を

親に持つ子どもが不憫だとも書かれていた。
私と味岡さんの話は必然的に『花街の母』になった。

机の上のこの手紙を果たして見せて良いものか

どうか迷いに迷ったが、味岡さんに見てもらって

プロモーションのヒントが欲しかった。

私は手紙を彼に渡した。
味岡さんは手紙を真剣に読んでくれた。

「この手紙をネタに私に記事を書かせてくれませんか?」

それは手詰まりの今の私にとって、大きな大きな提案だった。

「ありがとうございます。ぜひお願いします」

味岡さんが手掛ける文化通信の記事は地方新聞社に配信される。

当時、文化通信の記事は内容にもよるが
最大で25社に配られていたが、この『花街の母』の記事は
地方紙16社に掲載されることになった。

藁をも掴む思いでいた私は味岡さんから掲載される
地域を聞き出し、その地域の販売店に新聞掲載を知らせる
手製のチラシを付けて再々度商品の貸し出しを実施した。

大都市を除く地方16地域にこの記事は掲載された。
大ヒットを夢見る金田たつえ家族全員の
汗と涙のキャンペーン物語は読者の涙を誘った。

「課長!営業所から7万枚来ました!」

「馬鹿言え!3万枚しか出していないものが、
どうして7万枚も返ってくるのか!」

「返品ではありません。注文です!」

「えー!本当か!?」

大声で泣きたくなった。
私は心の中で文化通信の味岡さんに手を合わせた。

来る日も来る日もキャンペーンに明け暮れ、
折れそうになった心を夫婦で励まし合い、

5年もの風雪に耐え、全国くまなく根を張った夫婦の我慢の

木に一念通天の大輪の花がついに咲いた。

そして昭和54年大晦日、
第30回NHK紅白歌合戦の晴れ舞台で、

金田たつえはこの日まで支え続けて来た多くの人々に
『花街の母』の熱唱で感謝した。

数日後、味岡さんと居酒屋で祝杯を上げたが
味岡さんは目を細め

「あれほど見事に嵌った記事も最近では珍しい」と
喜んでくれた。

その後暫く『花街の母』は万単位の注文がつづき、
350万枚の大ヒットになった。

 

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