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「花街の母」が世に出たのは昭和48年6月10日、大阪地区限定の自主制作盤だった。
すでに民謡歌手としての確立された地位を捨て初めて出した流行歌がこの曲だった。
たつえは初め、キングレコードの民謡歌手として在籍し、大物ディレクターの
掛川尚雄氏の世話になっていたが、掛川氏のコロムビア移籍とともに自らもコロムビアへ民謡歌手として移籍した。声があれるから演歌は歌ってはいけないという、掛川氏の
反対があったにもかかわらず、内緒で制作にとりかかった。夫で所属事務所社長の梶原が、知人であった作詞家のもず唱平氏に頼んで詞を書いて
もらう。できあがってきた詞は、偶然にもたつえ本人の人生とだぶる内容であった。
たつえは、生後80日で金田イチの養女となった。北海道江差で芸者をしていたイチは、砂川市に移り民謡教室の師匠として生計をたてながら、たつえを育ててきた。イチはたつえに民謡を教えた。 その母を北海道に残してたつえは歌手をめざして上京した。 母の姿が重なり、涙とともに何度も歌詞を読み返した。すべては全くの偶然の出来事で、まさに運命の曲だったのである。梶原とともに、何年かかろうと必ずこの歌を世にだす。そう決意し、昭和47年12月末に「花街の母」をレコーディング。 掛川氏の激怒をかい、レコード会社も支援はしない、発売地区は大阪のみ、宣伝費用も ほとんどなしという厳しい条件の中、「花街の母」はこの世に船出した。
客が3人もいれば満席となる大阪市西成区の飲食店街が全国行脚の出発地だった。
酒に酔った客相手のキャバレー回り、一人もふりむいてさえくれない店頭キャンペーン、魚河岸での早朝のキャンペーン、毎日夕方から夜中の2〜3時まで、多いときは一日で
24軒もの店をまわった。気がつくと、ざっと日本列島を2周半するほどの距離をくまなくまわったという。
ある日、その夫婦ニ人三脚の日々に奇跡がおこる。草の根キャンペーンが効を奏し、全国各地で着実にファンが増え、4年後の昭和52年には全国発売になり、
そして昭和53年、ついに250万枚の大ヒットとなった。発売後6年目のことだった。
つらい時代の彼女を支えつづけた母イチは平成8年4月28日に帰らぬ人となった。
「花街の母」の歌詞のとおり、最後まで弱音をはかなかった。享年79歳だった。
たつえは供養歌として「母恋巡礼」という曲を作り、ひそかに仕事の合間をぬ
って四国巡礼に出掛け、平成12年10月にはその八十八カ所巡礼の旅を終えた。
今もこの「花街の母」を聴いて人生の転機を乗り越えたというファンからの手紙が届く。
長い歌手生活の中で、母ものから、艶もの、夫婦もの、文芸作品、男唄、と路線をふやしつづけながら実力派ベテラン歌手として君臨する金田たつえ。
今日もまた、着実に新しいファンをふやしつづけている。
〜私が願っているのは、いつまでも人の心に残る歌〜
金田たつえ
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